昨日、このブログを開設してから、これが2本目の記事となる。
昨日は、東日本大震災の6周年の日だった。
その関係の話題を。
元ソースは、2011年5月23日の、読売新聞朝刊、家庭欄「人生案内」というコーナーに掲載されたものだ。
東日本大震災で祖母を亡くした女子大学生が、津波で祖母とともに避難したが、このままでは二人とも命が危ないと、祖母を置き去りにして自分だけ逃げて助かったというのだ。
そして、祖母は逝去した。
そんな自分の行動を、どうすれば償えるかという質問に対して、ある心療内科医が回答するというもの。
非常に考えさせられる女子大生の悩みだが、それに対する女性医師の言葉が感動的なものなので、紹介するとともに、彼女の取った行動に対する自分の考えを述べてみたい。
前提事項として
今この記事を読んでいる方々は、私のことをよく知っている方々ばかりではないと思われる。
そこで、このブログ開設直後から、前提的なことを書いておくことに。
私は、自分の考え方を人に押し付けたり、無理に信じてもらいたいと思うことは毛頭ない。
というか、「自分の考え」が絶対だとも思わない。
過去に25年間ソフトウエアエンジニアとして働いてきた経験がある人間として、いつも思うことがある。
それは、コンピューターと比較して、人間は色んな意味で「不完全である」ということだ。
以降の数行は、自分がコンピューターになったつもりで書く。
まず、ふつう人間は考えがコロコロ変わる。
そして、多くの人間は、自分の考えが絶対正しいものと思い込んでいる。
だが、数年たつと、以前とはまったく正反対のことを考えたり言ったりする。
だから、人間の言うことはあまり信用できない。
また、人間は色々な誤りを犯す。
それなのに、常日頃から本人は、自分がほとんど誤りを侵さないと思っている。
だが、実際は人間が行うコンピュータのプログラムは、誤り(バグ)だらけだ。
だから、人間の行動はあまり信用できない。
ここからは、人間に戻って(笑)書くが、元SEとして、「人工知能」や自動車の「自動運転」なども、あまり信用していない。
もっと言うならば、原発とかも。
ここだけロボットに戻って言うと、「不完全な人間たちが、危なっかしくて見てられない」と。
ちょっと横道にそれ過ぎたが、これは、上に書いた「自分の考えが絶対と思わない」理由の一つを書きたかったためだ。
私がこのブログや他のブログ等で書くことは全て、自分の考えを他の人々も持ってほしいという気持ちで書くのではない。
それでも、何らかの参考になるかもしれないと思って書くのだ。
「人生案内の悲痛な質問
以下に引用する読売新聞「人生案内」の投稿と心療内科医の回答は、下記のブログから引用する。
その女子大生の悩み事は以下の通りだ。
改行は私が挿入したもの(以下同)。
大学生の女子。
何をしていてもあのことばかりを思い出してしまいます。
あの日、私は祖母と一緒に逃げました。
でも祖母は坂道の途中で、「これ以上走れない」と言って座り込みました。
私は祖母を背負おうとしましたが、祖母は頑として私の背中に乗ろうとせず、怒りながら私に「行け、行け」と言いました。
私は祖母に謝りながら一人で逃げました。
祖母は3日後、別れた場所からずっと離れたところで、発見されました。
気品があって優しい祖母は私の憧れでした。
でもその最期は、体育館で魚市場の魚のように転がされ、人間としての尊厳などどこにもない姿だったのです。
助けられたはずの祖母を見ごろしにし、自分だけ逃げてしまった。
そんな自分を一生呪って生きていくしかないのでしょうか。
どうすれば償えますか。
毎日とても苦しくて涙が出ます。助けて下さい。 (A子)
(読売新聞、2011年5月23日朝刊、家庭欄「人生案内」掲載の内容を、ブログ「元気印「こっこ亭」のきまぐれ旅」2011/05/30より引用)
この質問に対する、心療内科医・海原純子氏の回答は以下の引用の通り。
お手紙を読みながら涙が止まらなくなりました。
こんなに重い苦しみの中でどんなにつらい毎日かと思うとたまりません。
ただあなたは祖母を見殺しにしたと思っていらっしゃいますが、私にはそうとは思えません。
おばあさまはご自分の意思であなたを一人で行かせたのです。
一緒に逃げたら2人とも助からないかもしれない、でもあなた一人なら絶対に助かる。
そう判断したからこそ、あなたの背中に乗ることを頑として拒否したのでしょう。
おばあさまは瞬時の判断力をお持ちでした。
その判断力は正しくあなたは生き抜いた。
おばあさまの意志の反映です。
人はどんな姿になろうとも外見で尊厳が失われることは決してありません。
たとえ体育館で転がされるように横たわっていても、おばあさまは凛とした誇りを持って生を全うされたと思います。
おばあさまの素晴らしさはあなたの中に受け継がれていることを忘れないでください。
おばあさまが生きていたらかけたい言葉、してあげたいこと、周りに居る人たちにかけたり、してあげてください。
そのようにして生き抜くことが憧れだったおばあさまの心を生かす道に思えます。
(読売新聞、同上)
自分の意思で命を終えること
以下、仮に「A子さん」として、お祖母さんを「B子さん」とする。
A子さんは「人間としての尊厳などどこにもない姿」というが、そもそもその時点では、B子さんの「本質」である魂は、その身体の中には存在しなかったのだ。
そう思えば、少しは楽になるのでは?
海原氏が書いている通り、B子さんが自分の意思でその場にとどまり、自分の意思で行けと言ったのだから、それに従った自分を責める理由はないと思う。
一緒に逃げていたら、力のない女性のことだから、坂道をおんぶしたりして逃げられたとは思えない。
自分の意思で生命を放棄するということは、ある条件のもとでは、非常に尊い行いだと思う。
たとえば、高度に霊的成長を果たした聖者の中には、自分の最期を悟り、自ら生命を終えることがある。
B子さんの場合、そこまでの境地には遠いとしても、一部でもそのような要素があるのではないか。
様々な宗教や聖者が言うことによると、人間はこの人生で学ぶことが色々ある中で、これを会得したら(地球という学校からの)卒業は近いというものがある。
それが、「生への執着」から自由になることだという。
B子さんは、そこまでの境地に達していたのではないか。
心療内科医のアドバイスについて
海原氏がどのような思想・信条を持っているかはまったく知らない。
だが、この方が言われていることは、「永遠の生命」あるいは「不滅の魂」の存在がなければ、あまり意味をなさないのではないかと思うのは自分だけだろうか?
もし、唯物論者の言うように、人間や動物の生命が一回性のものであり、生命の終わりは「無」でしかないとすれば、その後に生存する魂など無いとするならば、生命が終わった身体など、あまり存在の意味をなさない。
まったく動かなくなった機械と、どう違うのか?
もし人生の終わりが全ての終わりであるとするならば、その身体をそのまま、あるいは焼却した後で墓地に収めることに、何の意味があるというのか?
A子さんに何か言ってあげられる機会があるとするならば、私も海原氏が書かれたこととそう大きく変わらない
もし少しでも心残りがあるならば、自分がB子さんの分まで生きてあげることが、最大の償いになるのではないだろうか。
どうでしょう?
…と、こう書いていても、自分の考えに同意してくれる人が多くいるとは、あまり思えない。
それ以前に、それを願うこともない。
こんなことを書いても何になる?と自問しつつ、書いている。
…とまで書いてしまったら身も蓋もないから、「まあまあまあ、そう言わずに、一人でも何かしら得るものがあったという人がいるかもしれないので、これからもその調子で続ければ?」と自分に言い聞かせることにしよう。
※3.11三部作の第3弾は、明日3/13(月)12時頃に配信される予定とのことです。
探求三昧よりもこのブログで紹介した方が良いような内容です。
画像をクリックで動画を再生。↓
【龍矢】【愛弥美】店内でドラえもんの歌が流れて思わず歌い出す。Kids started singing Doraemon song.
1日かけずに突貫工事で作ったにしては何とか見れるデザインになったと自己満足。
探求三昧よりも良いかも?
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