神秘三昧Web & blog - 超常現象研究家・ライターの百瀬直也によるスピリチュアル・予言情報

ノンフィクションライター、超常現象研究家の百瀬直也がスピリチュアル・霊性・予言等を探求する


【小論】諏訪-鹿島レイラインの研究(百瀬直也)

長野県の諏訪大社および守屋山と、茨城県の鹿島神宮などは東西線上で結ばれており、またその延長線上には、気多大社・白山・白山中居神社・石切神社の南北線があり、その他の方位線を含めた複雑な関係があることを解説する。

目次:

 

第1章 はじめに

英国のアルフレッド・ワトキンスは、複数の教会や古代から聖地とされている場所が一直線上に配置されていたり、またある種の幾何学的形を形成することに気づき、それをレイラインと命名した。
日本では、神社など昔から聖地とされている場所が一直線上に並んでいたり、三角形などの神秘的な形をつくることに早くから気づいた人々がいて、それらもレイラインと呼ばれることがある。
個人的には、必ずしもレイラインという言葉が適当ではないと思う部分もあるが、それに代わる適当な言葉が今のところ見出せないため、本稿を含めた一連の小論では、レイラインという言葉を流用することにする。


日本のレイラインでもっとも知られたものの一つとして、小川光三が発見した「太陽の道」がある。
大和の地に存在する寺社や古墳や山の山頂が、北緯34度32分の東西の一直線上に並んでいるというものだ。
『増補 大和の原像 知られざる古代太陽の道』で発表されたものだが、1980年にNHKのスペシャル番組になって話題になった。
また太陽の道に付随して、神社や古墳が形作る巨大な三角形などが発見されており、それらは春分や夏至などの特定の暦日に太陽が昇ったり沈んだりする地上の地点を示すために利用されたという。
このように、NHKが精力的に取材したほど非常に衝撃的な内容であるにもかかわらず、このことについて学術的な研究を進めたり反証を試みるといったことがされていないのは残念である。


本稿の目的は、太陽の道に類似したものとしてすでに知られている諏訪-鹿島レイラインについて検討するとともに、私が独自に発見した内容について報告し、その意味について検討することにある。
なお、本稿の第3版以降では、より正確な位置情報を使用するために緯度経度のデータを改訂し、世界測地系(WGS-84)に統一した。新たに使用している環境では、フリーウエアの『カシミール3D』より国土地理院の地形図閲覧サービス(1/25000数値地図)にアクセスし、地図上の山頂や神社の緯度経度を測定している。上記ソフトの緯度経度表示では秒の小数点以下2桁まで表示されるが、測定時の誤差を考慮し、小数点以下を四捨五入して切り上げている。
また神社の位置を測定する場合、本殿の中心点の緯度経度を測定し、本殿がない神社の場合は拝殿の位置とした。

第2章 諏訪-鹿島レイライン

2-1 諏訪-鹿島レイラインの概要

「諏訪-鹿島レイライン」については、すでに同様の呼び方をしている方がいるかもしれないが、便宜上こう呼んでいる。
諏訪-鹿島レイラインについて初めて文献に現れた例は、私の知る限りでは、前述の小川の著作における以下の記述である。

そこで試みに鹿島神社と諏訪神社に定規を当てて、線を引くと、見事に正確な東西線となる。これがはたして偶然だろうか。私にはここにも太陽の道と同じ思考が働いていると思えてならないのだが、自分の身辺に注意してみると、こうしたことがいくらでもあることに気がつく。(注1)


しかし、ここで問題となるのは、上記引用文と文献中に見られる地図から推測すると、小川が用いた地図は日本全図のような大まかな地図であり、このような地図は「見事に正確な東西線」だと判定するには不適当だろう。
同緯度であるとする許容度数を広げるほど、そのような相関性が偶然によって生じる確率が高くなる。
レイラインのような、一般に容易に受け入れがたい内容を証明するにあたっては、説得力を増すための努力が必要となるだろう。


では、どのくらいの差異の範囲内ならば許容されるかということに関しては、一概には言えず、2点間の距離などを考慮して考えなければならないだろう。個人的には、一般的に緯度・経度が5秒以内の差(距離にして約150m)の範囲であれば、かなり高い可能性で相関関係があるものとし、10秒以内の差では上記よりも低い可能性ながらも相関関係がある可能性を検討することにしている。ただし、他の要因によって相関関係があると思われる場合については、その限りではない。


この「諏訪-鹿島レイライン」については、荒俣宏も『神聖地相学世界編 風水先生レイラインを行く』で下記のように言及している。

この諏訪神社、実は鹿島神宮のほぼ真西にある。(注2)

ここで荒俣も、知ってか知らずか、「ほぼ真西」という表現でお茶を濁しているきらいがある。
小川と荒俣の記述で、まず疑問となるのが、諏訪大社は上下合わせて4社あるのに、そのうちのどれを指して鹿島神宮の真西だと言っているのか、ということだ。
その疑問を置いておくとしても、ある程度正確な緯度経度を調べて実際に検証してみると、諏訪大社の上社前宮、上社本宮、下社春宮、下社秋宮のいずれの宮も、それほど「正確」には、鹿島神宮の本殿と緯度が一致しないことがわかった。


そのうち、鹿島神宮と最も緯度が近い上社前宮でも北緯35度59分28秒であり、鹿島神宮本殿(北緯35度58分08秒)とは緯度にして1分20秒ほどの差異がある。緯度の1分の違いは約1800メートルのズレを生じることを考えると、やはり正確な一致とはいえないだろう。
だが、いわゆる『古事記』の国譲り神話にある諏訪大社と鹿島神宮の祭神である建御名方神と建御雷之男神の戦いを考えると、やはりそこには偶然とは思えない一致があると考えるべきかもしれない。これについては、後の章で更に検討したい。

2-2 守屋山と鹿島神宮

前項で紹介した小川や荒俣の説がかなりのセンセイショナルな内容を含んでいることを考慮すれば、2キロ以上の差というのは、やはり説得力に欠けることは否めないだろう。
そこで、諏訪大社の周囲を詳細に調べてみたところ、諏訪大社の上社のご神体とされる守屋山山頂の位置(北緯35度58分04秒)が、鹿島神宮の本殿の位置(北緯35度58分08秒)とかなり近い関係にあることがわかった。緯度でいうと、4秒ほどしか違わない。この差を距離に置き換えると、1秒の緯度の差は30メートルであるから、120メートル程度の違いしかないということになる。


古代日本でこのような測量を行う場合の測量方法については稿を改めて検討することにするが、当時の技術力で4秒ほどの誤差しか出ないというのは、非常に精度が高いものと考えてよいだろう。
なお、同様の研究として、『Leyline Hunting』のサイトによるものがあり、これによれば、杖突峠と鹿島神宮の要石の緯度を比較しており、ここでも8秒ほどの差という意味のある結果が出ていることを付記しておく。


更に調べてみた結果、この守屋山-鹿島神宮のレイライン上には、下記の2つの神社が存在することがわかった。
まず、埼玉県上尾市愛宕1丁目の愛宕神社(北緯35度58分08秒)で、守屋山(北緯35度58分04秒)との緯度の差は約4秒である。
次に、埼玉県岩槻市諏訪4丁目3番地の諏訪神社(北緯35度58分10秒)があり、守屋山(北緯35度58分04秒)との緯度の差は約6秒である。この神社については若干誤差が多いため、参考までに記しておくに止める。


ちなみに、埼玉県下には諏訪神社が多く鎮座し、その数は80社以上である。地域的には、埼玉県全域に分布しているようだが、特に秩父市と秩父郡に多いようで、この地域へ諏訪から移住した人々がいたことを裏付けるものかもしれない。


以降に紹介する例も含めたレイラインの図(図1)を下記に示す。
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【図1: 諏訪-鹿島レイライン】

2-3 諏訪大社上社本宮と秩父神社

更に進めて、諏訪大社4社及び守屋山と、鹿島周辺の神社とを比較してみて、緯度が一致する地点はないかと調べてみた。
その結果、諏訪大社上社本宮(北緯35度59分56秒)と、埼玉県秩父市馬場町の秩父神社(北緯35度59分51秒)が約5秒の差と、非常に近いことがわかった。


Web上で検索してみると、諏訪大社と鹿島神宮の間の線上に秩父神社が位置することにすでに気づいていた人がいるようだが、やはり比較の対象があいまいである(諏訪大社4社のどの宮を比較しているのかの記述がない)ため、正確さに欠けるきらいがあった。
諏訪大社と秩父神社は一見何の関係もないように思われるが、秩父にはかつて信州から治水工事のために移住してきた人々がいたという伝承があり、小鹿野や吉田町のあたりで治水工事を行ったといわれている。また、地元には自分たちの先祖が諏訪から来たと信じている人々もいるようだ。(注3)


上述の上野村には「諏訪山」という地名があり、ちょうど諏訪湖の東方に位置するのだが、前述の伝承と照らし合わせると興味深いものがある。
また、秩父神社の有名な夜祭での面白い話があるので紹介する。
かつて馬場町通りが牽引コースであった頃、夜祭の山車が諏訪神社の前に来ると、それまで大騒ぎで練り歩いていた人々が急に静かになり、諏訪大明神の前を静静と通り過ぎるというのだ(注4)。非常に意味ありげで興味深いものがある。

2-4 諏訪大社上社前宮と大生神社

次に、諏訪大社上社前宮(北緯35度59分28秒)の方はどこか他の神社との対応関係がないかと調べてみたところ、鹿島神宮の手前、茨城県潮来市大生の大生(おお、おおぶ、おう)神社(北緯35度59分31秒)が約3秒の差で緯度が一致することがわかった。
大生神社は「元鹿島」とか「鹿島の元宮」と呼ばれ、鹿島大社の祭神である建御雷之男神は元々この神社に祀られていたものが後年遷座されたとの伝承がある。


上社前宮が4社の中で最古の聖地といわれることなどを考え合わせると、この2社の位置的な関係も、偶然の一致とは思えないものがある。
これまで見てきたように、守屋山、諏訪大社上社前宮および本宮を中心とした3本のレイラインが東西に平行して存在することがわかった。

2-5 守屋山と高松神社

これまでは東西線上に複数の神社があるかどうかを調べたわけだが、次に守屋山の南北線上に乗る、つまり経度が一致する神社がないか調べてみた。その結果、遠州・御前崎の西方、静岡県御前崎市の高松神社(東経138度05分33秒)を発見した。守屋山(東経138度05分36秒)との差は約3秒である。
高松神社の祭神などの詳細は現時点では不明だが、大宝元年(701年)、文武天皇の勅令で熊野神社中新宮をこの地に移したといい、当地でもっとも古い神社であるという。
この神社は守屋山および諏訪信仰との関連性がまだ判明していないため、参考までに記すに止めておく。

第3章 気多大社-白山レイライン

3-1 白山中居神社と白山

前章で述べたように、諏訪大社上社前宮と同緯度の地点に大生神社があることがわかったが、次に上社前宮の西方の延長線上に神社がないか探してみた。その結果、岐阜県の福井県との県境の手前に、白山中居神社(北緯35度59分32秒)を発見した。上社前宮(北緯35度59分28秒)との緯度の差は約4秒である。


地図を見てみると、この白山中居神社(東経136度46分08秒)は、白山信仰のご神体山である白山の山頂(東経136度46分17秒)の真南に位置することに気づいた。両者の経度を調べてみると、その差は約9秒である。また、山頂直下には白山比咩神社奥宮(東経136度46分18秒)がある。

3-2 大汝神社と気多大社

白山の周囲を更に調べてみると、白山山頂の北方500mの地点に大汝峰(東経136度46分00秒)があり、その山頂下には、白山比咩神社の末社のひとつである大汝神社(東経136度45分58秒)が鎮座する。ちなみに、前項で記した白山中居神社(東経136度46分08秒)と大汝峰(東経136度46分00秒)との経度の差は約8秒であり、白山中居神社から真北へ直線を引くと、白山と大汝峰のちょうど中間あたりを通ることになる。


大汝神社の祭神は大己貴神だが、この神は白山中居神社でも祭神となっている。
このことから推測されるのは、白山信仰はもともとは出雲系の氏族が信仰の対象としたものでなかったか、ということだ。
そして、その推測をさらに深める事実を発見した。白山中居神社と白山山頂を結ぶ南北の線を北へ延長していき、能登半島の西端に達すると、その線上に石川県羽咋市の気多大社(東経136度46分03秒)があった。白山中居神社(東経136度46分08秒)との経度の差は約5秒で、白山山頂(東経136度46分17秒)との差は約14秒である。また大汝峰(東経136度46分00秒)との差は約3秒で、白山よりも大汝峰と経度が近い。


諏訪大社という出雲の神を祀った神社から出発して、出雲とは関係なさそうな白山及びその関連の神社がかかわり、最後に出雲の神社にたどり着いたことになる。
白山、大汝峰、大汝神社、気多大社が位置する東経134度46分の線を、便宜上「気多大社-白山レイライン」と呼ぶことにする。

3-3 大己貴命と菊理姫命

気多大社-白山レイラインの存在が判明し、その線が白山中居神社を交点として、諏訪-鹿島レイラインと関係していることがわかった。ここで、白山神社と諏訪大社にいったいどんな関係があるのかという疑問が生じる。調べてみると、諏訪大社との共通点がないわけではない。
それは、白山信仰の中心的存在である白山比咩大神は水の女神であるということである。これは、諏訪大社が諏訪湖の辺に鎮座し水に関連する神を祀っていることと対応する。


気多大社と白山中居神社の祭神を調べてみると、興味深い事実に遭遇した。
気多大社の祭神は、大国主の別名とされる大己貴命だ。更に、この神社の若宮社には事代主命が、白山社には菊理姫命が祀られている。そして白山比咩神社にも大己貴神が祀られ、気多大社には、白山比咩神社の祭神である菊理姫命が祀られているのだ。


この関係をどう解釈すればよいのだろうか。この問題については長くなるので、稿を改めて書くことにしたい。
白山中居神社が諏訪大社上社前宮と同緯度にあることは、最初のうちは偶然の一致という可能性も考えた。しかし出雲の神々というつながりを加味すると、偶然であるという可能性は低いように思われる。

3-4 石切神社

気多大社-白山レイラインを白山中居神社より更に南方へ延長して調べたところ、岐阜市内の石切神社(東経136度46分13秒)が線上にあることを発見した。白山山頂(東経136度46分17秒)と比較すると、経度の差は約4秒である。
南宮大社と諏訪大社下社秋宮との関係がまだ確言できる状態にないため、以下も参考程度に記しておく。

第4章 南宮大社と富士山レイライン

4-1 富士山レイライン

富士山(北緯35度21分39秒)と出雲大社(35度24分07秒)がほぼ同緯度にあるということは、以前より様々な人々によって言及されてきた。しかし、両者の緯度を見ると、かなりの差(約2分28秒、距離にして4Km以上)があることがわかり、同一線上にあるとは容認しがたい。


なお、このラインに関連して、私は別ところで発見をしているのだが、これについては別稿で書くことにする。
南宮大社(北緯35度21分39秒)が富士山とほぼ同緯度にあることは、以前から気がついていた。緯度でいうと1秒未満の差で、ぴったりと一致する。また、富士山の東麓にある富士浅間神社(静岡県・須走、北緯35度21分46秒)も、富士山と約7秒の差で同緯度にある。
出雲大社は別としても、やはり富士山レイラインは存在するといえるだろう。

4-2 南宮大社

今回、富士山レイラインについて調べたところ、諏訪大社とのつながりがあることを発見した。
南宮大社(北緯35度21分39秒、東経136度31分31秒)と諏訪大社下社秋宮(北緯36度04分57秒、東経138度04分56秒)を結ぶ線を引くと、南宮大社から下社春宮を見た時の方位は60度18分45.16秒であり、東西線から北方へ約29度21分の角度となる。この角度は、夏至の日の日の出の方位とほぼ一致するものだ。


南宮大社から諏訪大社下社秋宮が見えるはずはないのだが、仮に見えたとすると、南宮大社から夏至の日の朝に日の出を眺めると、諏訪大社下社秋宮がある方角から日が昇ることになる。
神社や山の頂を結ぶ直線によって、このような夏至の日の出線や冬至の日没線などが現れることが多くの文献で報告されているが、それはせいぜい数キロの範囲内のことである。これらの大地の上の暦は、農耕社会において必要に迫られてつくられていったものと思われる。種まきや収穫の時期など植物の育成上のタイミングを知るために、夏至や冬至が基準とされたからである。


だが、このように、地上の山や神社などを暦とするには、数百メートルから数キロの範囲内でそのような関係を作れば十分なはずである。 数十キロ、数百キロ離れた地点間でこのような関係が生じるとなると、それを説明するのはむずかしいものがある。
もし両者の夏至線上の位置的関係が成立するとすれば、上記のような実利的な目的ではなく、もっと観念的、宗教的な理由があったと推測される。これについては今後の課題としたい。
諏訪大社と南宮大社の結びつきは非常に強いものがあるように思われる。南宮大社の祭神である金山彦命は金属冶金に関わる神であるが、諏訪大明神も製鉄に関係する神であると言われている。また、諏訪大社も南宮と呼ばれる恵ことがあるが、12世紀に編纂された歌謡集
『梁塵秘抄』では「南宮の本山は信濃国」つまり諏訪大社であると記されている。


これらのことを考え合わせると、南宮大社が現在の位置に建てられた際に、諏訪大社の位置を考慮したのかもしれない。

第5章 レイライン形成の背景

5-1 諏訪-鹿島レイライン

この章では、各レイラインがつくられた背景を探ることにする。
既に見てきたように、諏訪-鹿島レイラインの場合、3本の線を検討しなければならない。つまり、守屋山--鹿島神宮、白山中居神社-諏訪大社上社前宮-大生神社、諏訪大社上社本宮-秩父神社の各点を結ぶ3本である。


このうち、守屋山が諏訪大社上社の御神体山とされており、また『古事記』の国譲り神話の内容を考慮すると、守屋山と鹿島神宮を結ぶ線が、上記3本のうちで最も重要なメインのレイラインであるように思われる。
上記で国譲り神話の内容というのは、建御名方神と建御雷神(武甕槌神)との戦いを意味する。『古事記』では、天照大神が出雲の神である大国主命に国譲りを迫った時に、最後まで抵抗したのが、大国主の息子である建御名方神だった。


建御名方神は、天照大神らに派遣された建御雷神に力比べを挑むが、負けてしまい、科野国の州羽の海(諏訪湖)まで逃げた。諏訪で追い詰められた建御名方神は、そこで服従を誓い、今後は諏訪の外へ出ないと約束した。
この戦いで負けた建御名方神を祀る神社が諏訪大社であり、勝った建御雷神を祀るのが鹿島神宮である。
諏訪-鹿島レイラインのメインの線では、守屋山が基点となってレイラインがつくられたと考えざるを得ない。なぜならば、自然の造形である山が動くはずはないから、その逆は成り立たないからである。


しかし、ここでひとつの疑問が生じる。それは「なぜ、国譲りの戦いで勝った方の神を祀る鹿島神宮が、負けた方の神を祀る諏訪大社に合わせなければならないのか」ということだ。
その謎を解く鍵は、諏訪ー鹿島レイラインの別の線の上に位置する大生神社にある。
梅原猛は『常陸国風土記』の記述から推論し、鹿島神宮は大化五年(649)に建てられたとしている(注4)。鹿島神宮の西北に位置する大生神社は、建御雷之男神を祭神としている。そして既述のように、「元鹿島」「鹿島の元宮」などと呼ばれている。


梅原猛が報告している同神社の伝承では、祭神の建御雷之男神は神護景雲二年(768)に奈良の春日へ行き、大同元年にこの地に帰ってきたが、翌年に鹿島の地へ移転したという(注5)
潮来の地には、崇神天皇のときに中央から派遣された建借間命がこの国に多くいた凶族を懲らしめた伝承が伝わっている。この建借間命は、神八井耳命を祖とする人物で、仲国造の祖とされている。神八井耳命を祖とするのは多氏の流れである。
また梅原は、大場磐雄が書く、大生神社が建つ地は大生氏すなわち多臣氏が開拓した地であるという説を紹介している(注6)


これらのことから梅原は、鹿島は建借間命の名をとって地名としたのではないかと結論づけている。そして、大和の地から移り住んで東国経営の第一線に立ち、香島(鹿島)という神都を中臣氏と協力してつくったとも述べている(注7)


以上のことが定説ではないとしても、常陸の国の大半が多氏によって開拓されたのは事実のようである。
多氏といえば、大和の太陽の道では、多神社をはじめとして、多氏の関連の神社が重要な位置にあるようだ。このことからも、多氏は日本のレイライン形成の歴史上、重要な役割を担っていったことが推測される。


では諏訪大社と多氏の関係はどうかと調べてみると、下社の大祝家の金刺氏がやはり神八井命を祖とし、阿蘇氏と同系であるとされている(注8)
このことから、諏訪大社のご神体山である守屋山の真東に鹿島神宮を建てたのは、多氏の流れを汲む人々によるものではないか。そして、この自説が正しければ、上述の梅原の説が説得力を増すものとなるだろう。
そして鹿島神宮よりも古いと思われる大生神社も、同じ多氏の人々によって、諏訪大社で最古の宮とされる上社前宮の真東に建てられたと思われる。

5-2 気多大社-白山レイライン

前の章で既に書いたように、気多大社-白山レイライン上の神社の祭神を見ると、白山比咩神社には、出雲の神である大己貴神が祀られ、気多大社には、白山比咩神社の祭神である菊理姫命が祀られている。また、富山県高岡市の気多神社でも、相殿として菊理姫命が祀られている。このことから、一見何の関係もないと思われる気多大社と白山信仰との間に、知られざる関係があるのではないかと思われる。
前述の高岡市の気多神社では、祭神が大己貴命と奴奈加波比賣命となっている。奴奈加波比賣命(奴奈川姫)は、『先代旧事本紀』などでは建御名方神の母とされる女神である。


また、気多神社と似た名称をもつ神社に新潟県上越市居多(こた)神社があるが、この神社は昔は「けた」と呼ばれていたというから、気多神社と同系統の神社であるようだ。この神社の祭神が大国主命、奴奈川姫、建御名方命であることによっても、気多神社と建御名方神との何らかの関連があるかもしれない。
『気多祭儀録』によれば、気多大社は十代崇神天皇の頃の創建であるという。同一線上にある白山中居神社の方は、『白山中居神社縁起』によると、創建は景行天皇十二年とある。社殿をそのまま信用するわけにはいかないが、気多大社と白山中居神社のどちらが古い神社であるかの判断は難しいところである。
いずれにしても、気多大社-白山レイラインを形成した存在については、既述のように、出雲系の氏族である可能性が大きいように思われるが、より詳細については今後の研究課題としたい。


なお、このレイラインについては、気多大社以北は未調査だが、同一線上に更に神社が見つかる可能性があるため、地元の人々の情報を期待したい。

第6章 結語

前章で述べたように、諏訪-鹿島レイラインと気多大社-白山レイラインは、各自の閉じた世界の中では、レイラインとしての存在性にある程度の説得力があると思われる。
両者の相関性という点では、白山中居神社が接点となっているわけであるが、石切神社と諏訪大社上社前宮の夏至線の日の出線の存在が証明できれば、両者に相関関係があることについては、より説得力が増すだろう。


この2つのレイラインをつくりだした存在が誰かについては、現時点では、諏訪-鹿島レイラインの方は多氏系の人々によるものであり、気多大社-白山レイラインの方は、出雲系の人々によってつくられたものではないかと推測する。


上記の諏訪-鹿島レイラインと気多大社-白山レイラインの相関関係があるとするならば、多氏と出雲のどちらがこの2つを結びつけたのかということを含めて、今後の課題としたい。
なお、本稿で示したようなレイラインの研究においては、複数の神社や山が同一線上に位置することなどに何らかの意味があるかどうか、つまり一般にいわれるところのレイラインが成立するかどうかについては、単に2つの神社などが東西・南北またはニ至の日の出・日の入り線の同一線上にあるというだけでは、偶然の一致と思われても仕方ない部分がある(もっとも、それが3つ4つと増えれば偶然とは思いがたくなるだろうが)。そのため、神社の由緒などを調べた上で判断を下すことが重要であろう。言い換えれば、自分自身にある程度の「ストイックさ」を課すことが大切である。


  1. 小川光三『増補 大和の原像 知られざる古代太陽の道』(東京、大和書房、1980年年)、76頁。
  2. 荒俣宏『神聖地相学世界編 風水先生レイラインを行く』(東京、集英社、1997年)、316頁
  3. 松本昌親他「座談会・お諏訪さまと共に生きる」、諏訪大社・監修『お諏訪さま信仰』(東京、勉誠出版、2004年)、121-122頁
  4. 梅原猛『神々の流竄』(東京、集英社、1985)、199-200頁
  5. 梅原猛『神々の流竄』(東京、集英社、1985)、205-206頁
  6. 梅原猛『神々の流竄』(東京、集英社、1985)、206頁
  7. 梅原猛『神々の流竄』(東京、集英社、1985)、207頁
  8. 宮坂光昭『諏訪大社の御柱と年中行事』(松本、郷土出版社、1992)、7-14頁
 

参考文献



Copyright(C) 百瀬直也 初出:2004/06/24 第3版: 2004/07/01






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