今日は、ちょっと古くなるが、松原照子さんの8月17日の世見を取り上げる。
2017/08/17の「ユダヤと日本」と題した世見だ。
「昔のことを知って何になる」と言われる方がおられるかもしれません。
私は古代の謎がひとつでも解明されると、地球家族を認識できるようになると信じているのです。
理由は別にあるわけではなく、「ユダヤ」この言葉にはいつも興味が注がれるのです。
不思議な世界の方々も私のこの想いをご存知で、この課題も教えてくれるのだと思っているのです。
(松原照子、ブログ「幸福への近道」、2017/08/17より)
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古代イスラエル関係は、「不思議な世界の人々」からの一報的な情報送信と思っていたが、松原さん自身も個人的に関心が強いようだ。
もしかして、過去生で向こうにいたとか?
私自身も、過去に4回イスラエルに行ったが、そういうことを感じた。
特に、ベツレヘムとかエルサレムで、デジャヴュのような感覚が生じたこともあった。
銅の鏡
「古代のユダヤ神殿には銅で作られた鏡がありました」
何となく聞き流せずにいますと、
「鏡とユダヤ人とは切っても切れない清浄をあらわす御霊に近いもの」
「この鏡こそが古代エジプトを脱出できた証」
とも話されるのです。
古代のユダヤ人達は移動する神殿をこの鏡に込めたのです。
自分の顔の表情から神の存在を感じたのかもしれません。
(松原照子、同上)
これはまた、マニアックな…
というか、真相を知っている人が日本にどれだけいるのかという疑問をもつような…。
青銅の鏡は聖書の時代からあった。
だが、神殿に鏡があった記述は、自分が調べたところ、見当たらない。
ただ、鏡が祭儀的目的で使われた可能性もある。
出エジプト記 30:18「洗いのための青銅の洗盤と青銅の台を作ったなら、それを会見の天幕と祭壇の間に置き、その中に水を入れよ。30:19 アロンとその子らは、そこで手と足を洗う。30:20 彼らが会見の天幕にはいるときには、水を浴びなければならない。彼らが死なないためである。また、彼らが、主への火によるささげ物を焼いて煙にする務めのために祭壇に近づくときにも、30:21 その手、その足を洗う。彼らが死なないためである。これは、彼とその子孫の代々にわたる永遠のおきてである。」
http://www.logos-ministries.org/old_b/ex30-32.html
以下、上記で引用したページの解説より。
洗盤は、神殿の外庭の、青銅の祭壇と聖所の間に置く。
そして、祭司が聖所に入る時、そして青銅の祭壇でいけにえを捧げる時に、手足を洗う。
そうすれば、死を免れるという。
手や足を洗うことは、非常に重要なことだったようだ。
ちょうど日本の神社でも、必ず手水舎(ちょうずしゃ)で手を清めるように。
・出エジプト記 38:8 「また彼は、青銅で洗盤を、また青銅でその台を作った。会見の天幕の入口で務めをした女たちの鏡でそれを作った。」
非常に興味深い説明です。洗盤は、青銅の祭壇と聖所の間にあり、祭司が動物のいけにえなどで汚れた手足を洗いきよめるところです。これは、神のみことばによる洗いを意味していることを以前学びましたが、ここではその洗盤が、女たちの鏡で作った、とあることです。当時は、鏡はガラスではなく、よく磨かれた青銅でした。
出エジプト35−38章
この点は、松原さんの「古代のユダヤ神殿には銅で作られた鏡がありました」とは異なる。
そうではなく、女性の鏡を溶かして(?)作った青銅の洗盤と台を作ったという。
ちなみに、出エジプトには40年もかかった。
これは、伊勢神宮の御遷宮が20年毎に行われることと関係あるのだろうか?
というわけで、イマイチきれいに解説ができなかった。
古代イスラエルの神殿に鏡があったとすれば、日本の神社との共通点が増えることになる。
もっと深く調べてみたいものだ。
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